あだ名

「桃〜!ご飯よ!」 

母の声がリビングに鳴り響く。

「はーい、今行く」

私は高らかに返事をしたものの、足の指をピクリとさせるだけだ。

眠い、眠すぎる。

まだ昼過ぎだというのに私の瞼は鉛のような重さで眼を覆おうとしている。

「昨日ハッスルしすぎたかな」

欠伸混じりにぼそりと呟く。

というのも、私は散歩が趣味なのだ。昨日は自宅から結構な距離のある公園まで遠征していた。この間、散歩中によく会う近所のおばさまに穴場だと言って教えてもらったところだ。たしかに人も少なく、涼しくて過ごしやすい場所である。

「ナナもおいで〜」

私がウダウダ動くのを渋っているうちに、ナナの食事の用意もできたらしい。

ナナとはうちで飼っている犬のことだ。私が散歩中に見つけて連れて帰った雑種犬。

母はナナを溺愛している。毎日かわいいかわいいと言いながらワシャワシャ撫で回す。ときおり私の頭にも手を伸ばしてくるが、犬のついでに撫でられるなんてなんか嫌だ。

でもそんなスキンシップよりもナナへの深い愛を示唆するものがある。

「セブン!ピー子!ご飯だっつってんでしょ‼︎」

でた。あだ名だ。

母はナナを愛するあまり、本来の名前をこねくり回し多種多様のあだ名を生み出していた。

ナナ子、ナーちゃんならまだわかる。

でもセブン、せっちゃんから始まりお姫、ぴぃ、ピー子など、もはや原型をとどめていないものは犬を呼ぶのにどうかと思う。由来もよくわからないし。

ふと見ると、ナナがのっそりと歩き出している。おそらくあだ名にはピンときていないものの「ご飯」というワードに胃袋が反応したのだろう。

つくづく単純なやつ。

私は少し呆れたようにナナを見た。

でもその単純さが母を惹きつけるのだろう。私にはできない、何も考えていないアホ面が。

あだ名という特別な贈り物を貰っているナナが少しだけ憎らしく、そして羨ましくあった。

「犬に嫉妬するなんてアホらしっ」

すぐに我にかえった私は、そろそろ台所へ向かおうと重い体を起こした。

ナナのように怒気混じりに呼び立てられたいわけではない。

台所に着くとナナがご飯にむしゃぶりついている。あたりを汚すのも構わず、食の喜びを享受している姿だ。

「…かわいい」

そう。ナナはかわいいのだ。

垂れた耳、温和な瞳、ごきげんそうに揺れている尻尾。

私のくだらない嫉妬や羨望を全て吹き飛ばすほど、ナナのかわいさは圧倒的だ。

これからもきっと小さな不満を持つことはあっても、そのたびにその愛らしさに白旗をあげるのだと思う。

「今日はナナもあの公園に連れていこう」

私は勝手に決めたナナとの予定に胸を躍らせながら、ステンレスボウルの中身を舌で掬い始めた。